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最高裁判所第三小法廷 平成2年(行ツ)45号 判決 1993年2月16日

上告人

和歌山労働基準監督署長

上野修身

右指定代理人

加藤和夫

外五名

被上告人

神谷榮

右訴訟代理人弁護士

藤原精吾

同訴訟復代理人弁護士

岡村親宜

望月浩一郎

黒岩容子

中野麻美

塚原英治

古川景一

被上告人

前村ひで子

寺中ツエ

谷口定夫亡田﨑ウメヨ訴訟承継人

川端斐子

川村千代子

田和一郎

右六名訴訟代理人弁護士

藤原精吾

前哲夫

山内康雄

佐伯雄三

深草徹

小貫精一郎

増田正幸

岡村親宜

望月浩一郎

黒岩容子

中野麻美

塚原英治

古川景一

被上告人

小倉ノブ

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

一上告代理人岩佐善巳、同宗宮英俊、同大沼洋一、同兼行邦夫、同赤塚信雄、同小見山進、同田原恒幸の上告理由第一点について

1  原審の適法に確定した事実の概要は、次のとおりである。(1) 神谷博、前村孝則、寺中一夫、小倉重太郎、谷口房之助、田﨑正一、田和徳次郎(以下「本件被災者ら」と総称する。)は、労働基準法及び労働者災害補償保険法が施行された昭和二二年九月一日に先立つ第一審判決別表(一)記載の就労期間、同表記載のベンジジン製造業務就労事業場において、ベンジジンの製造業務に従事した者である。(2) 同表記載の請求者ら(以下「本件請求者ら」という。)は、上告人に対し、同表記載の請求年月日に、本件被災者らが、ベンジジン製造業務に従事したことに起因して右の昭和二二年九月一日の後である同表記載の発病日にぼうこうがん等の疾病にかかったとして、労働者災害補償保険法に基づき、同表記載の保険給付を請求した。(3) 上告人は、本件請求者らに対し、いずれも昭和五一年八月一九日付けをもって、右各保険給付の不支給決定(以下「本件不支給決定」という。)をした。(4) 本件不支給決定の理由は、労働者災害補償保険法による保険給付の対象となるのは、同法の施行日以降に従事した業務に起因して発生した死傷病に限られるところ、本件被災者らがベンジジン製造業務に従事した期間は、いずれも右施行日より前であるから、本件被災者らの疾病は、同法にいう業務上の疾病とは認められないというものであった。

2  所論は、右事実関係によれば、本件被災者らは、専ら労働者災害補償保険法の施行前にベンジジン製造業務に従事したにすぎないにもかかわらず、その疾病につき、労働者災害補償保険法の適用があるとした原判決には、同法三条一項、一二条の八第一項、第二項、附則五七条二項の解釈、適用を誤った違法があるというのである。

労働者災害補償保険法に基づく保険給付の制度は、使用者の労働基準法上の災害補償義務を政府が保険給付の形式で行うものであるから(最高裁昭和五〇年(オ)第六二一号同五二年一〇月二五日第三小法廷判決・民集三一巻六号八三六頁)、本件被災者らの疾病が、労働者災害補償保険法による保険給付の対象となるといえるためには、右疾病が、労働基準法による災害補償の対象となるものでなければならない。そこで、労働基準法による災害補償の対象となる疾病の範囲についてみるのに、同法は、広く、業務上の疾病を災害補償の対象とするものであり(同法七五条ないし七七条)、同法附則一二九条は、その文理からして、右の業務上の疾病のうち、同法施行前に疾病の結果が生じた場合における災害補償については、なお旧法の扶助に関する規定による旨を定め、右の場合のみを労働基準法による災害補償の対象外としているものと解されることにかんがみると、労働基準法の右各規定は、同法の施行後に疾病の結果が生じた場合における災害補償については、その疾病が同法施行前の業務に起因するものであっても、なお同法による災害補償の対象としたものと解するのが相当である。

所論は、労働基準法に基づく使用者の災害補償責任は、使用者が労働契約に基づき労働者をその支配下に置き労務の提供をさせる過程において、労働者が負傷し又は疾病にかかるなどした場合に、使用者にその損失を補てんさせる点にその本質があるのであるから、使用者は、その責任の根拠となる業務上の事由が生じた時点における法規に基づく責任を負担するにとどまるものであると主張するが、災害補償責任の本質が右のようなものであるからといって、可及的に被災労働者の救済を図るという見地から、労働基準法の施行前に従事した業務に起因して同法施行後に発病した場合をも同法の適用対象とすることが許されないとすべき理由はない。

そして、労働者災害補償保険法もまた、同法の施行後に疾病の結果が生じた場合については、それが同法施行前の業務に起因するものであってもなお同法による保険給付の対象とする趣旨で、同法附則五七条二項において、同法施行前に発生した業務上の疾病等に対する保険給付についてのみ、旧法によるべき旨を定めたものと解するのが相当であり、健康保険法の一部を改正する等の法律(昭和二二年法律第四五号)附則三条ないし五条の規定の文言も、右解釈の妨げとなるものではない。また、一般に、保険制度に基づく保険給付は、本来、費用負担者から拠出された保険料を主な財源とするものである以上、保険制度が発足する以前に原因行為があり、結果がその発足後に発生した場合に、これを保険事故として保険給付をすることは、例外的な扱いであるといわなければならないが、業務上の事由によって被害を受けた労働者に対する補償を実効的に行うことを目的として労働者災害補償保険制度が導入されたことなどから考えると、前記のように、労働者災害補償保険法がこれを保険給付の対象としたことには、合理的な理由があるものということができる。

そうすると、労働者災害補償保険法施行後に生じた本件被災者らの疾病は、本件被災者らがベンジジンの製造業務に従事した期間が同法施行前であるからといって、同法七条一項一号所定の業務上の疾病に当たらないということはできず、同法一二条の八所定の保険給付の対象となり得るものというべきである。以上と同旨の原判決は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。

二同第二点について

本件不支給決定の理由は前示のとおりであり、上告人は、本件被災者らの疾病が第一審判決別表(一)記載のベンジジン製造業務就労事業場における業務に起因するものであるか否かの点については調査、判断することなく、専ら本件被災者らが右業務に従事した期間が労働者災害補償保険法の施行前であることを理由に、本件不支給決定をしたことが明らかである。被災労働者の疾病等の業務起因性の有無については、第一次的に労働基準監督署長にその判断の権限が与えられているのであるから、上告人が右の点について判断をしていないことが明らかな本件においては、原判決が、本件被災者らの疾病の業務起因性の有無についての認定、判断を留保した上、本件不支給決定を違法として取り消したことに、所論の違法はない。論旨は採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官園部逸夫 裁判官坂上壽夫 裁判官貞家克己 裁判官佐藤庄市郎 裁判官可部恒雄)

上告代理人岩佐善巳、同宗宮英俊、同大沼洋一、同兼行邦夫、同赤塚信雄、同小見山進、同田原恒幸の上告理由

《目次》

第一点 労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)三条一項、一二条の八第一項、第二項、五七条二項の解釈、適用の誤り

一 はじめに

二 使用者の労基法上の災害補償責任について

三 労災保険法適用の可否について

四 労災保険法五七条二項について

五 結び

第二点 審理不尽ないし理由不備の違法

第一点 労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)三条一項、一二条の八第一項、第二項、五七条二項の解釈、適用の誤り

一 はじめに

労災保険法五七条二項は「この法律施行前に発生した事故に対する保険給付及びこの法律施行前の期間に属する保険料に関しては、なお旧法による。」と規定しているところ、原判決は、右にいう「事故」とは、文理解釈上、被災労働者に発生した負傷、疾病等の結果を意味するから、本件被災者らには旧法の適用がない(原判決の引用する一審判決一九丁裏九行目から二〇丁裏二行目まで、同二三丁表六行目から一〇行目まで)と判示した上、本件における労働基準法(以下「労基法」という。)上の災害補償責任の存否を論じ、これを肯定し、結局本件には労災保険法の適用があるとしている。

しかしながら、まず労災保険法の施行当時の規定を通覧すると、「原因である事故」という文言を用いて、負傷、疾病、死亡という結果とは明確に区別し、それらの原因となった事由そのものを指すものとして定めている条文(同法一九条、二〇条)があり、現行規定においても同様の文言を用いている条文(同法八条一項、一二条の二の二第一項、第二項、一二条の四第一項、二五条一項三号、二八条一項四号後段)も存するのであって、原判決のいうように同法五七条二項にいう「事故」の意義を文理解釈によって一義的に、労働者に発生した負傷、疾病等の結果を意味するものと断ずることはできないというべきである。換言すれば、条文上「事故」という文言が用いられている場合であっても、各条文の趣旨、目的等を個別具体的に審究してその意義を決定しなければならないのである。

このような観点に立脚して、労災保険法五七条二項の「事故」の意義を検討すれば、右にいう「事故」とは、労働者に発生した負傷、疾病等の原因となった業務上の事由(原判決のいう「結果」に対応する意味での「原因事実」のこと、以下「業務上の事由」という。)を意味するのであって、結果としての負傷、疾病等を意味するものでないことが明らかであるというべきである。

ところで、立法当時の労災保険法(昭和二二年四月七日法律第五〇号)においては、保険給付の事由は労基法七五条ないし八一条に定める事由とされ(労災保険法一二条二項)、保険給付の内容も小額療養費の不支給と休業補償給付に七日間の待期が存していた以外は労基法の災害補償と同一であった(労災保険法一二条一項)ことからも明らかなように、労災保険制度は、労基法上の個別使用者の災害補償責任を前提とし、これを担保するためのものであったということができるのであって、このことは原判決(その引用する一審判決二四丁裏九行目から一〇行目まで)も認めているところである(その後、労災保険制度は、数次の改正を経て適用範囲の拡大及び年金制度の導入等が図られ充実したものになってきたが、右の基本的性格に変化はない。)。そうすると、本件における労災保険法上の保険給付の可否を格討するためには、まずその前提として同法の保険制度が担保すべき労基法上の災害補償責任の存否を考察する必要があることが明らかである。

そこで、以下本件における労基法上の災害補償責任の有無、次いで労災保険法適用の可否を検討し、最後に労災保険法五七条二項について再論し、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな同法三条一項、一二条の八第一項、第二項、五七条二項の解釈、適用の誤りがあることを明らかにする。

二 使用者の労基法上の災害補償責任について

1 原判決は、労基法一二九条の解釈として、同法施行後に疾病等が発症した場合には、旧法の適用がないとした上で、工場法に定められていた扶助義務と労基法上の補償義務との間に一定の差異があることは認めながらも、「右の程度の差異は工場法による扶助義務の内容と労基法による補償義務の内容との間に質的相違をもたらすものではなく、いわば労働者保護の程度に量的な差異があるにすぎず、両法間には連続性があるというべきである。そして、このような場合に、旧法時代に原因を有する疾病が新法施行の後に顕在化して発病した場合、労働者にいかなる権利を付与し、その反面使用者にどのような義務を負担させるかは、立法政策の問題であって、法理論上の原理原則は存しない。けだし、工場法及び労基法はいずれもいわゆる社会政策的立法であるから、立法当時の社会的な要請に応じ、その内容を自由に定めることが許されるものと解されるからである。」(原判決二二丁裏四行目から二三丁表四行目まで)とした上、「労基法は、右のような場合には、発病時点における労働者保護法である労基法を適用し、使用者にそこに定めた災害補償義務を負担させることとしたと解するのが相当である。」(原判決二三丁表末行から同裏四行目まで)と判示し、その理由として、「第一に、「事故」の意義についての説示において指摘したとおり(中略)、旧法時においては発病がないのであるから、その時点では使用者の工場法に基づく扶助義務の内容が全く不明であり、発病によって初めて使用者の負う義務内容が具体的に明らかになること、第二に、本件のように著しく長期間の潜伏期間を有する疾病(平均一八年、最長四五年)の場合には、原因となる業務が行われてから発病するまでの間に、社会的経済的環境は、国家全体としても、使用者及び労働者の個人的レベルにおいても激変していることが予想され、そのような場合には、時代の要請に応じた定めがされているであろう発病時の法を適用するのが労働者及び使用者双方の合理的利益に合致すると考えられること、第三に、労基法は、日本国憲法下で労働者の権利を強化するために立法化されたものであるから、この立法により、使用者の災害補償義務が免責され、逆に労働者の権利が制限される結果となることは極めて不合理であること、第四に、労働者の疾病が「業務上の事由」に起因するものである以上、発病が遅れて新法が適用され、結果として使用者の補償責任が加重されたとしても、使用者はこれを受忍すべきであると考えられること、第五に、労基法上、本件のような場合の適用を否定すべき明文の根拠はなく、かえって、(中略)その経過規定は、旧法の適用を否定していると解されること」(原判決二三丁裏四行目から二四丁裏七行目まで)を挙げている。

しかしながら、原判決の右認定判断は、以下に述べるとおり、労基法の解釈、適用を誤ったものであるというべきである。

2 まず、労災保険法と同様、昭和二二年四月七日公布され、同年九月一日施行された労基法は、その一二九条において、「この法律施行前、労働者が業務上負傷し、疾病にかかり、又は死亡した場合における災害補償については、なお旧法の扶助に関する規定による。」と規定しているところ、原判決は「右条文はその規定の仕方からして、旧法の扶助に関する規定が適用されるのは、労基法施行前にすでに災害補償の対象たる疾病等が発生していた場合であると解するのが自然であ(る)」(原判決の引用する一審判決二〇丁裏七行目から一〇行目まで)とした上、本件については旧法の適用がないものとしている。

しかしながら、労基法一二九条の経過規定の文理解釈から原判決のような結論が当然に導かれるものではなく、同条は、工場法の災害扶助の制度が、労基法上の災害補償の制度に移行したことに伴って設けられた規定であるから、右経過規定は、「被災者の請求権」について新法、旧法のいずれが適用されるかについて規定するとともに、「使用者の責任」について新法、旧法のいずれが適用されるべきかについて規定したものである。いうまでもなく、災害補償責任の存否を判断するに当たっては、後にも述べるとおり、その責任を根拠づける業務上の事由そのものが重要なのであり、業務上の事由による疾病、死亡等がいつ生じたかではなく、その原因がいつ生じたかを基準として、その負担すべき責任の存否を判断すべきものである。そうであるとすれば、右条文は、「この法律施行前『の事由により』、労働者が業務上負傷し(中略)た場合における災害補償については、なお旧法の扶助に関する規定による。」と解釈することが可能であり、かつ、より合理的であることが明らかである(西村意見書及びその補充書参照・<書証番号略>)。

3 そして、右のように解釈することが正当であることは、労基法及び労災保険法制定当時の立法者が、当該負傷、疾病、廃疾(現行法は障害)又は死亡の原因となった業務上の事由が旧法時に発生しているときは、それによる疾病、死亡等が新法時に発生した場合においても旧法によるという考え方を採っていたことからも裏付けることができるのである。すなわち、

(一) 右労基法の立法に深く関与した労務法制審議会小委員会の委員長末広厳太郎博士は、同法一二九条の解説において、「災害補償に関するこの法律の規定(七五條以下)が施行されるより以前、即ち昭和二十二年八月三十一日より前に、「労働者が業務上負傷し、疾病にかかり、又は死亡した場合」には、その当時の扶助に関する規定が適用される。その者の扶助はすべて旧法の適用によって與えられるのであって、例えば九月一日以降引続き療養を要する場合にも旧法によって扶助を受け得るに過ぎない。八月三十一日以前の負傷に因り九月一日以後に死亡した場合も旧法の適用を受ける。」と述べている(「労働基準法解説(六・完)」・法律時報二〇巻八号六三ページ)。

これは立法者の意思を明確に述べたものであり、遺族補償の場合、「死亡」が新法時に発生したとしても、その前提である「業務上の負傷」が旧法時に生じていた場合には、旧法の適用を受け、新法の適用はないと解するのが立法者の意思であったのである。してみると、原因となった業務上の事由が旧法時に発生し、それによる疾病、死亡が新法時に発生した場合においても、右と同様に解するのが立法者の意思に合致するものと解される。けだし、業務上の事由が旧法時に発生し、遺族補償における「結果」(死亡)が新法時に発生しているという関係が同一である以上、疾病がたまたま旧法時に生じた場合と新法時に生じた場合とで右補償の要否、内容について結論を異にすべき理由は存しないからである。

(二) 立法者の意思が右に述べたようなものであったことは、労基法施行直後に発せられた行政解釈によっても裏付けることができる。右行政解釈は、労働省労働基準局の見解を示したものであるが、労基法はいわゆる政府提出立法であり、同基準局は、労働関係の所管行政庁として同法施行と同時に発足し、同法の立法に直接携わった厚生省労政局の事務を引き継いだのであるから、右見解は同時に、法案策定当局の見解でもあるといってよいのである。

まず、労基法が施行され、労働省が発足した直後の昭和二二年九月一二日、労働省労働基準局長は、同日付け基発第四一号(<書証番号略>)をもって、「昭和二十二年八月三十一日以前に業務上負傷し若しくは疾病にかかった労働者については、それに因る九月一日以後における療養、休業、障害又は死亡の事実に対しても、旧法(工場法、鉱業法又は労働者災害扶助法等)の扶助に関する規定により療養費、休業扶助料、障害扶助料、遺族扶助料、葬祭料又は打切扶助料を支給すべく、その労働者が健康保険、又は厚生年金保険の被保険者であるときは引続きその保険の給付を受くべきものである。八月三十一日以前において支給すべきであった扶助料を九月一日以後において支給する場合旧法の金額によることも勿論である。九月一日以後に業務上負傷し或いは疾病にかかり若しくはこれにより死亡した労働者又は即死した労働者の災害補償については、新法によるのであり、健康保険及び厚生年金保険による給付(業務上によるもの)は受けられないのである。」旨の通達を発した。さらに、労働省労災保険課長は、岡山労働基準局長照会に対し同年一二月二〇日付け通達災保第一九号(労災保険解釈例規総攬九ページ以下・労働省労働基準局労災保険課監修昭和二三年六月一日発行)をもって、右の新法、旧法の適用関係について更に明確に見解を示した。すなわち、

岡山労働基準局長は、「労働基準法第百二十九條の解釈(左記)によって法施行前業務上負傷し若しくは疾病にかかった労働者については、それに因る九月一日以後の各種災害補償は当然新法によって補償すべきものと解されるが、基発第四一号の通牒(前掲通達のこと。引用者注)の次第もあるので何故旧法の規定によるや條文の解釈及びその根拠を具体的かつ詳細に御回答賜りたく照会する。記災害補償は、療養、休業、障害、死亡等の事実によって補償すべきであって、その原因たる業務上の負傷若しくは疾病によって補償すべきでないことは言を要しないものと思考する。法第百二十九條に本法施行前死亡したる場合の災害補償即ち死亡の事実に対する災害補償は旧法によって補償すべき旨明確に規定してあり、その者が法施行後死亡したる場合は当然新法によって補償すべきであると解する。(死亡は業務上の負傷疾病であることは勿論である)又本法施行前業務上負傷し若しくは疾病にかかった場合の災害補償(その者が療養を受ければ療養補償を、休業せば休業補償を、障害を残せば障害補償を、死亡せば遺族補償等)は旧法によるとあり、本法施行後においても引続き或は転帰に至る迄なお旧法の規定による旨の定めのない限り災害補償はその事実によって補償すべきであると解する。要するに法第百二十九條は本法施行前に補償すべき事実の生じた分の補償規定であり救済規定であると解する。」旨照会した。

これに対して、労働省労災保険課長は、「労働基準法第百二十九条にいう負傷、疾病、死亡とは補償を行うべき事故を指しているものであつて、現実に補償すべき状態(補償事由)がたとえ本法施行後において発生したものについても、補償事故の発生が本法施行前に属するものについては旧法によるものなることは法文の解釈上明らかである。なお、本条文中の死亡とは所謂即死をいうものなることは負傷、疾病と列記したことによって疑義の余地なく本法施行後死亡した場合においても、その原因である負傷疾病が本法施行前発生したものについては旧法によるべきである。」旨回答したものである。

右の照会及び回答の経緯から明らかなとおり、岡山労働基準局長において、前記通達基発第四一号に関連して、労基法一二九条は同法施行前に療養、休業、障害、死亡等の補償をなすべき事実が発生した場合についての規定であり、補償をなすべき事実が同法施行後に生じた場合には旧法の適用はないのではないかとの疑問を抱いたことから照会したのに対し、労働省労災保険課長は、同条にいう「負傷」、「疾病」又は「死亡」とは、補償をなすべき事実が生ずる原因となった業務上の事故、すなわち業務上の事由をいうものであるとの見解を更に明確に示したものであることは明らかである。

(三) ところで、原判決は、「そもそも解釈例規とは、行政の統一的運用を図る目的で、行政庁が具体的に生起した問題について自らの判断を明らかにしたものにすぎず、本件のごとく被告の法解釈自体が争点になっている訴訟においては、行政庁の法解釈を明確にする以上の意味を有するものとはいえないうえ、<書証番号略>によれば、昭和二三年一月一三日付基災発第五号、同年六月二四日付基収第二〇〇六号等の通達において、労働基準局自らが、労災保険法施行直後においては、旧法の適用の有無を疾病等の結果の発生により区別していたことが認められることからすれば、右行政庁の解釈自体確固として定着してきたものではない」(原判決の引用する一審判決二一丁裏六行目から二二丁表六行目まで)としている。

しかしながら、解釈例規の中には、原判決の指摘するように行政庁が個別具体的な問題について、当該事案に即して自らの判断を示したものが存し、それは、立法者として統一的、一般的な解釈を示したものではなく、むしろ、個別的具体的な判断を示したものと理解すべきものであるが、他方、いわゆる政府提出立法において、立法を担当した行政当局が、あらゆる場合のあらゆる異なる見解を想定して条文を作成することがおよそ不可能である関係上、特殊な場合について法文上異なる解釈をなす余地がないではない点に関し、法的安定性、法文解釈の統一性を図るため、法案策定当局としての解釈を一般的に示したものも存するのである。この場合にあっては、まさしく立法者意思の具現化としての解釈の統一性を目的とする行政解釈にほかならないのであって、いわば当該法文の真意を行政解釈の手法を通して一般的に明らかにしたものであるから、右行政解釈は法文解釈をなす上で極めて重要な意義を有するものである。

前述した通達は、労基法施行と同時に発足し、同法制定の所管行政庁である厚生省労政局の事務を引き継いだ労働省労働基準局が、いわゆる政府提出立法である同法の解釈を同法施行直後に示したものであり、その発出の経緯、内容等に照らして、それが立法者意思の具現化としての解釈の統一性を目的とする行政解釈に該当することは明らかである。したがって、原判決の右判断は正当ではない。

また、原判決が摘示している昭和二三年一月一三日付け通達基災発第五号(<書証番号略>)は、「○○株式会社に於て腸チフスが発生したが、其の発生原因は未だ不明でありますが、次の事項について御回答願いたい。  記九月一日よりの発病者及死亡者についての補償は従来の健康保険にて取扱うべきや。」との照会に対し、労働省労災保険課長が、前記昭和二二年九月一二日付け通達基発第四一号を引用した上、「九月一日以後に発病した者については、労働基準法及び労働者災害補償保険法により補償を行うべきである。」旨回答したものであるが、右回答は、一見すると業務上の事故の発生日時ではなく、その後の疾病という結果の発生した日時により、新法、旧法の適用を判断すべきものとしているかのようである。

しかしながら、このような理解は正当ではない。すなわち、右回答は、照会の内容から明らかなとおり、疾病の発生原因が不明で、ひいては業務上の事由の発生日時自体が不明であるため、業務上の事由の発生日時を基準として旧法の適用の有無を判断することが不可能な案件に関するものであった。そのため、その後の発病という結果の発生日時から、そのころ業務上の事由が発生したものと推認した上、それを基準とすれば新法が適用されることを示したものと解される。このことは、右回答において、わざわざ前記昭和二二年九月一二日付け通達基発第四一号をもって示した「昭和二十二年八月三十一日以前に業務上負傷し若しくは疾病にかかった労働者については、それに因る九月一日以後における療養、休業、障害又は死亡の事実に対しても、旧法(工場法、鉱業法又は労働者災害扶助法等)の扶助に関する規定により療養費、休業扶助料、障害扶助料、遺族扶助料、葬祭料又は打切扶助料を支給すべく、その労働者が健康保険、又は厚生年金保険の被保険者であるときは引続きその保険の給付を受くべきものである。」旨を「参考」として付記し引用していることからも肯認し得るのであって、本文のような便宜的手法を用いることによって、無用の誤解や混乱が生じることを慮り、右回答が右通達基発第四一号と何ら見解を異にするものではないことを念のために明らかにしたものと理解し得るのである。

さらに、原判決が摘示している昭和二三年六月二四日付け通達基収第二〇〇六号(<書証番号略>)は、従前喘息及び肺浸潤として健康保険法の適用を受けていた者が昭和二二年九月九日の診断により硅肺として診断された場合、引き続き旧法を適用すべきか否かとの照会に対し、労働省労働基準局長が、「昭和二十二年九月九日は、「医師の診断によって疾病の発生が確定した日」ではなくて、本来該疾病は既に発生していたものであって、以前なされた診断が後日の正当な判断によって誤診であることが認められた日と解されるから、本件は旧法によつて扱われたい。」旨回答したものである。要するに、右回答は、既に労基法施行前において疾病という結果が発生していた案件について、従前からの行政解釈に準拠して個別的判断を示したものであるから、いわば当然の事理を示したにすぎないのである。そうすると、原判決が右回答を評して「行政庁の解釈自体確固として定着してきたものではない」と位置づけるのは正当ではない。

新法、旧法の適用問題に関する労働省の見解は、終始一貫しているのであって、このことは、その後の昭和三〇年五月二〇日付け通達基収第四七〇七号において、大正五年四月から昭和一七年一月までの約一五年五か月間にわたって採鉱夫などの粉塵作業に従事し、その後鉱山の守衛として働いていた者が、昭和二六年三月、珪肺結核が発病したため、珪肺症としての認定を申請した案件に関し、「本件疾病は珪肺三度、肺結核合併(要領(三)該当)であると認められるが、労働基準法及び労災保険法施行後に珪肺症発生のおそれある業務に従事していないから補償の対象とはならない。」旨回答していることからも明らかである。この行政解釈は、今日に至るまで全く変わりがないのである。

(四) ところで、昭和四六年ころから、労災保険法施行前に鉱山で就業していた労働者が、その業務のために慢性ひ素中毒あるいはじん肺にり患していたことが明らかになったが、労災保険法施行前の就業者については同法を適用することができないことから、その後衆参両議院の社会労働委員会をはじめとする各委員会において、何らかの援護措置を求めるべきであるとの意見が相次いで出された(<書証番号略>)。そこで、政府は、労災保険法上の補償給付を行うことはできないが、行政措置として、被災者に対する援護措置を行うこととし、労災保険法二三条に基づく保険施設(現在は、労働福祉事業)としての「労災特別援護措置」を昭和四八年八月一五日から実施している(同月九日付け通達基発第四六七号・<書証番号略>)。すなわち、右通達は、「労災特別援護措置」の制度趣旨が「労災保険法の施行前に鉱山等において有害業務に従事したことに起因して同法施行後にじん肺等長期間の経過後に発病する遅発性疾病にかかり療養の必要があると認められる者に対し、援護の措置を行う必要があるのでこれらの者に対し援護を行い、もつて福祉の増進を図るため新たに設けたものである。」旨を述べ、実定法上、労災保険給付を行うことはできないが、福祉行政の一環として援護措置を設けるものであることを明らかにしているのである。右経緯からすれば、立法府である国会においても、労基法及び労災保険法施行前の就業者には右各法の適用がないことを当然の前提としていたものと考えられる。

(五) 以上によれば、労基法の立法者の意思は、同法一二九条にいう「この法律施行前、労働者が業務上負傷し、疾病にかかり、又は死亡した場合」とは、業務上の事由が同法施行前に生じた典型的な場合を例示したものであり、たとえ結果の発生が同法施行後に生じてもその原因である業務上の事由が右施行前に生じている場合には、なお旧法によるという考え方であったことが明らかである。

4 ところで、労基法の災害補償責任の法的性格については、企業危険説、すなわち、使用者が労働契約を通じて労働者をその支配下におき、使用従属関係の下で労務の提供をさせるのであるから、その過程において、企業に存在する各種の危険の現実化として労働者が負傷し又は疾病にかかった場合には、使用者は何らの過失がなくても、その危険を負担し、労働者の損失てん補に当たるべきであるとする考え方が通説であり(吾妻光俊・注解労働基準法七二四ページ、西村健一郎「業務上・外認定基準」現代労働法講座一二巻一五七ページなど)、また、裁判例もこの考え方を当然の前提としているものと解される。

このように災害補償責任という無過失責任の法的根拠を「危険責任の法理」に求める以上、使用者の災害補償責任を肯定するためには、かかる無過失責任を肯定するための前提としての企業危険の存在が不可欠であり、この理は基本的には災害扶助責任にも妥当するものである。そして、過失責任においては過失行為時の法制度に基づく責任を負担すべきものとされているのと同様に、危険責任においても当該結果発生の原因となった企業危険の存在時の法制度に基づく責任を負担すべきであることは当然であると解される。そうすると、使用者について、工場法の扶助責任又は労基法の災害補償責任を問題とするときには、当該負傷、疾病又は死亡の原因となった企業危険の存在時期を検討し、右危険の存在した当時の法制度に基づく責任を問うべきものである。したがって、たとえ負傷、疾病又は死亡という結果が労基法の施行後に生じたとしても、その原因たる業務上の事由である有害業務への就業が専ら同法施行前に行われた場合には、使用者は、旧法による責任を負うべきか否かは格別、労基法による災害補償責任を負うべきいわれはないといわなければならない。

労基法立案に深く関与した末広博士や法案策定当局の同法一二九条の解釈も、右と同様の考え方に基づいているということができるのであり、同条は、右のような災害補償責任の本質からしても、たとえ結果の発生が同法施行後であってもその原因である業務上の事由が右施行前に生じているときは、なお旧法によることを規定したものというべきである。

5 右の解釈は、学説においても支持されている。

例えば、吾妻教授は、「この法律施行前「労働者が業務上負傷し、疾病にかかり、又は死亡した場合」とは、労働者の負傷・疾病又は死亡の原因たる業務上の災害が、昭和二十二年八月三十一日以前に発生したものであることを意味する。」としている(労働基準法改正版・法律学体系コンメンタール篇21(昭和三一年)・<書証番号略>)。

また、保原教授は、「労基法は、労働者が人たるに値する生活を営むことができるように、労働条件の最低基準を法律で設定し、これを使用者の義務として国がその遵守を強制することにした。使用者の災害補償責任も賃金、労働時間、休憩、休日、休暇、安全衛生等と並んで、これと一体を成す労働条件の一つとして、設定されたものである。これらの労基法上の使用者の義務は、労基法施行の日から、制度全体の一環として、相互に密接不可分なものとして強制されることになったわけである。」「もっぱら、労基法施行前の業務に起因したと認められる疾病等は、その発症が同法施行日以降であっても、なお旧法によるべきものと考えるのが合理的である。同法一二九条はこの事理を確認し、明示した規定であると解すべきである。」とし、このことは労災保険法の経過規定である同法五七条二項も同様であり、それは「災害補償制度の本来的性格に由来する規定だからである」としている(判例評論三四四号四一ページ)。

さらに、西村助教授も、労基法上の使用者の補償義務を根拠づけるのは、「まず、労基法の適用下にある使用者が当該労働者を現実に使用するという事実であって、それがなければ使用者の当該労働者に対する基準法上の補償義務はそもそも成立しない。労基法の適用事業で就業したという事実のみが、労基法上の補償義務を根拠づけるのである。」(前記意見書・<書証番号略>)としている。

6 原判決は、工場法に定められていた扶助義務と労基法上の補償義務の内容の差異は、「工場法による扶助義務の内容と労基法による補償義務の内容との間に質的相違をもたらすものではなく、いわば労働者保護の程度に量的な差異があるにすぎず、両法間には連続性があるというべきである。」(原判決二二丁裏四行目から八行目まで)とした上、本件に労基法を適用すべき理由として、「労働者の疾病が「業務上の事由」に起因するものである以上、発病が遅れて新法が適用され、結果として使用者の補償責任が加重されたとしても、使用者はこれを受忍すべきであると考えられる」(原判決二四丁表一〇行目から二四丁裏二行目まで)としている。

しかしながら、そもそも本件における「業務上の事由」はいずれも工場法施行時におけるものであるから、専ら同法における扶助責任の有無のみが問擬されるべきであって、発病が遅れたからといって、使用者の過去の行為に対する責任について、特段の立法措置がないにもかかわらず、行為時の法律による責任よりも加重された責任を負担させるのは明らかに不合理であって、これを正当化すべき理由は見出すことができない。

また、原判決は両法間の「連続性」をいうが、その内容は必ずしも明らかではない。工場法と労基法の規定のよって立つ思想家系譜としてはこれを認め得る余地があるとしても、それは極めて抽象的な概念以上のものではないから、それをもって直ちに、実定法の個別の条規の適用関係についての解釈根拠とすることはできないのである(前掲保原評論四四ページ参照)。

加えて、工場法における扶助責任と労基法における災害補償責任の具体的な内容を比較検討してみても、例えば、①工場法における扶助は、労働者に対する恩恵的あるいは救済的な施策と考えられていたのに対し、労基法では、使用者の無過失賠償責任の理念が確立され、補償は労働者の権利であることが明確になったこと、②業務上の災害に対する補償の内容が格段に強化され、災害補償の基礎となる賃金の範囲が拡大されたこと、すなわち、右基礎賃金の範囲は、工場法では、同法施行令一六条に明記するように定期的給与のうち通勤手当金等を除いた健康保険法の標準報酬と同様なものであったのに対し、労基法一一条、一二条によれば、賃金、手当、賞与その他の名称の如何を問わず労働の対象として支払われるすべてのものであってその賠償事由の発生した日以前三か月の平均賃金を基礎としているのであり、そのため、例えば、障害等級一級についてみれば、工場法の六〇〇日分と労基法の一三四〇日分とは単に二倍強ではなく相当大幅な増加となること、③補償義務に違反した場合の刑事責任も著しく加重されたこと、すなわち、工場法では、一〇〇〇円以下の罰金に処せられたにすぎなかった(同法二〇条)ものが、労基法では、六か月以下の懲役又は五〇〇〇円(現行法は一〇万円)以下の罰金に処せられることとされ(同法七五条ないし七七条、七九条、八〇条、一一九条一号)、刑罰の内容が大幅に加重されたこと等、両法間には看過し得ない重要な相違点が存するのである。したがって、原判決のこの点に関する判示は正当ではないというべきである。

さらに、原判決は、右の罰則について「なお右の点については、犯罪の成否や犯罪に対する刑罰の内容を定めたものではないから、厳密な意味での罪刑法定主義の原則の適用の余地はないものというべきである(したがつて、使用者に労基法上の義務を認めたとしても、そのことと労基法上の補償義務違反に対して労基法上の罰則が適用されるかどうかとは別問題である。)。」(原判決二三丁表四行目から一〇行目まで)としているが、これも正当ではない。けだし、使用者に労基法上の義務が認められれば、その違反に対しては同法上の罰則が適用されることになるのであって、このことは、同法一一九条が「次の各号の一に該当する者は、これを六箇月以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。」旨規定し、その一号において七五条以下の療養補償等の義務に関する規定を列記していることから明らかであり、現に補償義務違反に対して罰則が適用された例はこれまで多数存在するのである。したがって、原判決が判示するように使用者に労基法上の義務を認めることと補償義務違反に対して同法上の罰則が適用されることとは、決して別問題ではなく、むしろ表裏一体の関係にあるというべきであり、工場法の適用を受けていた使用者に対し労基法上の責任を認めることは、憲法の規定する罪刑法定主義の原則に反する結果を招来することになるといわざるを得ない。

ちなみに、この不合理は、保険制度による制度的裏打ちを必ずしも伴わない暫定的任意適用事業の使用者については一層際立ったものになるのである。すなわち、制定当初における労災保険法によれば、命令で指定されている災害発生率の高い事業を除き、工業、鉱業、運送業等においては常時五人以上の労働者を使用するとはいえない事業などが任意適用事業とされており(同法三条一項)、右事業については、使用者が保険加入の申込みをし、政府の承諾があった日に保険関係が成立するものとされていた(同法七条一項)。現行法においては、右任意適用事業の範囲は大幅に縮小されたが、労働者五人未満の個人経営の事業であって、一定の危険又は有害な作業を主として行う事業以外の農業、労働者を常時には使用せず、かつ、年間延べ労働者数が三〇〇人未満である個人経営の林業、労働者五人未満の個人経営の事業であって、総トン数五トン未満の漁船によるもの又は災害発生のおそれが少ない河川・湖沼又は特定の海面において主として操業する水産業が任意適用事業とされている(失業保険法及び労働者災害補償保険法の一部を改正する法律及び労働保険の保険料の徴収等に関する法律の施行に伴う関係政令の整備等に関する政令一七条、昭和五〇年四月一日付け労働省告示第三五号)。

これらの任意適用事業は、保険制度による制度的裏打ちをもたないから、原判決のように、「労働者の疾病が「業務上の事由」に起因するものである以上、発病が遅れて新法が適用され、結果として使用者の補償責任が加重されたとしても、使用者はこれを受忍すべきであると考えられる」とすると、労災保険制度に加入していない場合、前記旧法である工場法の扶助義務より格段に重い労基法上の災害補償義務を負担することになり、しかも、懲役刑を含む罰則の適用を受けることになる。この意味でも、原判決の帰結が著しく不合理なものであることは明らかであろう。

7 原判決は、「労基法は、日本国憲法下で労働者の権利を強化するために立法化されたものであるから、この立法により、使用者の災害補償義務が免責され、逆に労働者の権利が制限される結果となることは極めて不合理である」(原判決二四丁表六行目から一〇行目まで)とし、さらに、「本件被災者らに旧法が適用できないことは四で述べたとおりであり(なお、被告が主張するごとき解釈を前提として、旧法の適用を受けると解したとしても、(中略)結果的に本件被災者らは旧法の保険給付は受けられないこととなる。)、そうだとすれば、本件被災者らは、一の2で述べたごとく救済の必要が明らかであるにもかかわらず、その業務に従事した期間が労災保険法施行前の一事であることをもつて「法の谷間」に置き去りにされることとなり、この結果を是認することが日本国憲法の理念に基づき制定された労災保険法の趣旨に反することは原告らの指摘を待つまでもなく明らかである。」としている(原判決の引用する一審判決二八丁表五行目から裏五行目まで、原判決三二丁表四行目にも同旨の判示がある。)が、本件には旧法の適用がないとする点において、既に立論の前提を誤っているというべきである。旧法を適用した結果を批判する点については、「実定法が採用した制度の問題であるという指摘で十分であ(る)」(前掲保原評論四五ページ)といえよう。

ところで、工場法の扶助義務に関する規定をみるに、同法一五条は、「工場主ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ職工カ業務上負傷シ、疾病ニ罹リ又ハ死亡シタル場合ニ於テ本人又ハ其ノ遺族若ハ本人ノ死亡当時其ノ収入ニ依リ生計ヲ維持シタル者ヲ扶助スヘシ」と規定(大正一二年三月三〇日法律第三三号による改正後のもの)し、これを受けて同法施行令は、その四条二項で、「前項扶助ノ義務ハ別段ノ定アル場合ヲ除クノ外職工ノ解雇ニ因リテ変更セラルルコトナシ」と規定し、右「別段ノ定」として同法施行令一五条が「工業主ハ左ノ各号ノ一ニ該当スル場合ニ於テハ本章ノ規定ニ依ル扶助ヲ為ササルコトヲ得一 職工ノ解雇後一年ヲ経過シテ扶助ヲ請求スルトキ 但シ既ニ受ケタル扶助ノ原因タル負傷又ハ疾病ニ基キ請求スルトキハ此ノ限ニ在ラス解雇前ニ又ハ解雇後一年内ニ請求シタル扶助ノ原因タル負傷又ハ疾病ニ基キ請求スルトキ亦同シ」と規定していたのであるが、右施行令一五条の規定の趣旨は、除斥期間満了による扶助債権の消滅を定めたものとされている(岡實・工場法論・改訂増補版六五二ページ以下)。また、同条が「解雇後一年」という極めて短期の除斥期間を設けていた理由は、工場法の定める扶助義務が、単なる私法上の義務ではなく、「国家が公法関係に於て工業主に命じたる一種特別の義務であ(り)」(吉阪俊蔵「改正工場法論」、労災補償行政史二〇一ページ)、恩恵的色彩を強く帯有していたこと、解雇により雇用関係が断絶した以上、勤続職工と同様の恩恵をいつまでも与えておく必要はないと考えられていたこと(前掲岡六五三ページ)、さらには期間の経過による証拠の散逸などにあったものと解される(もっとも、右除斥期間の規定は、既に同一の原因により扶助を受けていたときや同一の事故につき扶助請求をしていたときには適用されないものとされていたし(工場法施行令一五条一号ただし書)、また、除斥期間満了後も使用者が恩恵的な扶助をする(自然債務に対する履行)ことを想定していた(同条本文))。

したがって、本件における使用者の工場法の下での扶助義務は、「解雇後一年ヲ経過」した時点、つまり、原判決の引用する一審判決添付別表(一)の「就労期間」の欄の記載から明らかなように、昭和一三年五月ないし昭和二〇年一〇月の時点で、除斥期間の満了により消滅していたと解さざるを得ないのである。

たとえ、この帰結が被災者にとって酷なものであったとしても、それは、労基法一二九条の解釈や同法八条にいう「事業」についての解釈の所産ではなく、工場法下における扶助義務が恩恵的色彩を強く帯有しており、同法施行令が短期の除斥期間を定めていたことによるものであり、これをもって原判決のいうように、本来「救済の必要が明らか」なものが旧法と新法との「法の谷間」に置き去りにされたとみるのは、事柄の本質を見誤った立論であるといわざるを得ない。本件における使用者の扶助義務は除斥期間の満了によって消滅したのであり、それにもかかわらず、その後労基法が制定されたことを契機として、同法に遡及適用規定等の明文の規定がないのに右扶助義務が実質的に復活し、かつ、更に加重された内容の補償義務を負担し、しかもその履行が罰則により強制されるというのでは余りにも不合理であるといわなければならない。

なお、労働省においては、ベンジジン被害の実態が判明した時点で労災特別援護措置の活用等現行法の範囲内で可能な限りの救済措置を講じてきたことは前述したとおりである。

右援護の内容は、診察、薬剤又は治療材料の支給、処置、手術その他の治療、病院への収容、看護など労災保険法の下での療養補償と同程度の医療措置及び療養に要する雑貨の支給であり(<書証番号略>)、右行政措置により、亡神谷博は、昭和五一年一二月一〇日から昭和五九年七月三一日までの間、計三〇二万八、〇二四円に及び診療委託費及び療養に要する雑貨の支給を受けており(<書証番号略>)、また、亡田和徳次郎も、請求がなかったため現実の支給はなされなかったが、請求しさえすれば同様の援護措置を受けることが可能であったのである。

かかる特別援護措置は、現行の法制度を前提とした最大限の措置として十分に評価できるものである。

8 以上のとおり、本件には労基法一二九条にいう旧法、すなわち工場法の適用があるのであって、労基法の適用があるとする原判決には同法八条及び一二九条の解釈、適用を誤った違法があるといわざるを得ない。

三 労災保険法適用の可否について

1 原判決は、「使用者に労基法上の補償義務を肯定すべきものとする以上、使用者の義務を保険することを主たる使命とする労災保険法の管掌者である政府は、使用者が労災保険法施行後も発病の原因となつた事業を継続し、その結果保険関係が成立するに至つた場合には、その時点で労働者は既に退職して事業に従事していなかつたとしても、労働者に対して労災保険法上の保険給付義務を負担するものと解するのが相当である。」(原判決二五丁表一行目から九行目まで)としている。

しかしながら、原判決の右判示は、労災保険法三条一項、一二条の八第一項、第二項の解釈、適用を誤ったものといわなければならない。

2 本件使用者は、本件被災者ひいては被上告人らに対し労基法上の災害補償義務を負わないことは前記二で述べたとおりである。したがって、原判決は、既に、この点において誤っているといわなければならない。

労災保険が労基法の定める災害補償責任をてん補する趣旨の保険制度であることは、最高裁判所においても「労働者災害補償保険法に基づく保険給付の実質は、使用者の労働基準法上の災害補償義務を政府が保険給付の形式で行うものであ(る)」として是認されており(最高裁昭和五二年一〇月二五日第三小法廷判決・民集三一巻六号八三六ページ)、また、原判決も肯認するところである(原判決の引用する一審判決二四丁表一行目から同丁裏一一行目まで)ので詳論は避けるが、このことは、両法の諸規定の対応関係及び労災保険法の立法理由、その後の改正経過のいずれに照らしても明らかである。

まず、両者の諸規定の対応関係をみると、前記一において述べたように制定当時の労災保険法の規定において、保険給付の種類は、療養補償費、休業補償費、障害補償費、遺族補償費、葬祭料及び打切補償費であり(同法一二条一項)、保険給付の内容も労基法の災害補償とほとんど同一であるし、業務災害に関する保険給付の支給事由については、「労働基準法第七十五條乃至第八十一條に定める災害補償の事由とする。」(同法一二条二項)とし、労基法の平均賃金を補償金額の計算の基礎としているのであって(同条四項)、保険給付の要件及び範囲は労基法における災害補償の要件及び範囲に対応していたのであり、現行労災保険法もほぼ同様である(同法一二条の八第一項、第二項、八条)。また、制定当時の労基法は、「補償を受けるべき者が、同一の事由について、労働者災害補償保険法によつてここの法律の災害補償に相当する保険給付を受けるべき場合においては、その価額の限度において、使用者は、補償の責を免れ、又は命令で指定する法令に基いてこの法律の災害補償に相当する給付を受けるべき場合においては、使用者は、補償の責を免れる。」(同法八四条一項)と規定しており、労災保険が機能として使用者の災害補償責任を免責させる効果をもっていたのであり、現行労基法においても、「この法律に規定する災害補償の事由について、労働者災害補償保険法(昭和二十二年法律第五十号)又は命令で指定する法令に基づいてこの法律の災害補償に相当する給付が行なわれるべきものである場合においては、使用者は、補償の責を免れる」(同条項)とされている。このことからしても、労災保険法上の補償給付制度が労基法上の使用者の災害補償責任をてん補するための制度であることは明らかである。

さらに、労災保険法制度の際の第九二帝国議会における厚生大臣の提案理由説明(<書証番号略>)、立法当時、労災保険法は厚生省ではなく労働省において所管すべきことを述べた当時の厚生省労政局労働保護課の見解(労働省労働基準局労災補償部編・労災補償行政史三一一ページ)、また、通勤災害保護制度導入の際の衆議院社会労働委員会における政府委員による通勤災害の性格についての説明(通勤災害保護制度―その創設経過―労働省労働基準局編二八二ページ以下)などにおいても右制度が労基法上の災害補償責任をてん補するためのものであることは明らかである。

以上のとおり、労災保険法における補償給付制度は、労基法における使用者の災害補償責任に基づく損失のてん補を目的とする保険制度であるところ、既に述べたように、本件においては使用者の災害補償責任が生じ得ない以上、労災保険法上の保険給付をなす前提を欠いているのであるから、原判決は、この点において失当である。

3 また、原判決は、本件に旧法の適用がないことを前提とした上で、本件に労災保険法の適用を認めるべき根拠として、「第一に、労災保険法においては、一定の要件に適合する事業については、それが法施行前からのものである場合には、法施行と同時にその事業につき保険関係が成立し、この保険関係は適用事業について生じるものであつて、保険加入者は使用者であり(六条)、個々の労働者との関係で発生するものではないこと、第二に、労災保険法一七条は、保険料の算定につき使用者が虚偽の告知をしたときは保険給付をしないことができると定め、一八条は、保険料の滞納期間中に発生した事故については保険給付をしないことができると規定していたが、第九二回帝国議会衆議院労災保険法案委員会議録第二回(昭和二二年三月二二日)によれば、右委員会において、政府委員は、右規定はごく例外的な場合にのみ適用を予定している旨説明していたし、その支給制限規定も昭和四〇年法律第一三〇号によつて削除され、現在では保険料の支払の有無に関係なく保険給付がされることになつており、保険料の支払と保険給付との関係は薄くなつていること、第三に、(中略)労災保険法はその制定当初においても労基法に定める以上の労働者保護制度を設けることが可能とされていたことが認められるところ、その後の改正(例えば、昭和四八年法律第八五号による通勤災害に対する保険給付規定の新設)によつて、現実にも労基法による使用者の災害補償義務を保険するという性格を多少弱めてきていること、第四に、保険関係の旧法すなわち旧健康保険法、旧厚生年金保険法及び労働者災害扶助責任保険法と労災保険法との連続性は、工場法と労基法との連続性ほどには明らかでないけれども、旧健康保険法と旧厚生年金保険法の各業務上の災害部分及び労働者災害扶助責任保険法が労災保険法として一本化されたことは明らかであり、前記のとおり、労働者災害扶助責任保険特別会計の積立金は労働者災害補償保険特別会計に組み入れられて(いること)」を挙げている(原判決二五丁表九行目から二六丁裏七行目まで)。

(一) そこでまず、原判決が挙げる第一の理由についてみると、これが根拠とはなり得ないことは明らかである。すなわち、制定当初の労災保険法六条は、「第三条第一項の強制適用事業の使用者については、その事業開始の日又はその事業が第三条第一項の事業に該当するに至つた日に、その事業につき保険関係が成立する。」とし、同法七条一項は、「第三条第二項の任意適用事業の使用者については、その者が保険加入の申込をし、政府の承諾があつた日に、その事業につき保険関係が成立する。」と規定していた(現行の労働保険の保険料の徴収等に関する法律三条等も同趣旨である。)が、右各規定による保険関係が成立するのは、右関係が成立した後の事業(右事業の遂行に伴う災害補償義務)についてであって、右関係が成立する以前の事業についてでないことは当然である。仮に、右保険関係が成立する以前に行われた事業による事故も保険関係の中に含まれ、政府が使用者に代わって各種保険給付をなすべきものとすれば、そもそも右各法条が、保険関係は事業開始の日又はその事業が同法三条一項の事業に該当するに至った日や、保険加入の申込みをし政府の承諾があった日に、「その事業につき」成立すると定めていること自体が無意義なものとなるからである。

労災保険法の保険関係は、同法の施行後において初めて成立するのであり、施行前には存在せず、同法施行以前に営まれていた事業及びそこでの労働災害が労災保険の適用対象となり得ないことは明らかである(前掲西村意見書・<書証番号略>、西村健一郎「労災保険法施行前の業務による疾病と労災保険法の適用」・季刊労働法一四一号一五六ページ以下、同旨前掲保原評論四四ページ)。

(二) 次に、原判決の挙げる第三の理由については、原判決が「労災保険制度は個別使用者の災害補償責任を担保する趣旨のものであり、制度の本質に変化はない」(原判決が引用する一審判決二四丁裏九行目から一〇行目まで)としながら、その性格を「多少弱めてきている」(原判決二六丁表一〇行目)ことが、何故に原判決の結論の根拠足り得るのかは不明であるといわざるを得ない。原判決は、労災保険法五七条二項の解釈上本件に旧法の適用がないことを前提とした上で、労基法、労災保険法の「立法政策」を論じ、労災保険法の適用の有無を判断しようとするものであるが、本件が、新法における経過規定の解釈をめぐる問題である以上、まずもって立法当時の労基法、労災保険法の趣旨、目的が最も重要視されるべきは当然であって、現行法を云々することはその意義に乏しい上、そもそも「多少弱めてきている」だけで制度の本質に変化をもたらさない程度の改正によって労災保険法の適用が可能になるということは考え難いものがある。

(三) 原判決の挙げる第四の理由については、「連続性」の意味内容が必ずしも明らかでない上、「制度的に旧法と新法間に大きな違いがない」と解することは失当である。

労災保険法施行前後の災害補償の仕組みは、原判決の引用する一審判決添付別表(二)のとおりである。同表からも明らかなように、旧法において工場法に対応する保険制度は、旧健康保険法及び旧厚生年金保険法(いずれも昭和二二年四月一日法往第四五号による改正前のもの。以下同じ)であり、労働者災害扶助責任保険法(同法は、労働者災害扶助法に対応する責任保険制度であり、その対象事業は屋外における土木建築等の事業であった。)ではない。旧健康保険法及び旧厚生年金保険法は社会保険制度であり、前述したような労災保険法の保険制度とは法的性格を異にするものであったのである。

この点について、西村助教授は、「労災保険法は、業務上の事由による労働者の負傷、疾病、廃疾(現在は障害)または死亡について労基法に基づく使用者の災害補償の責任を担保するために制定された法律であって、同法が制定される以前においては、災害補償に関する責任保険としては土木建築業、貨物取扱業等の屋外労働者に適用される労働者災害扶助責任保険法が存在するのみであった。その意味で、労災保険法はまったく新しい法制度として創設されたのであるといえる。」「たしかに、労災保険法の施行される以前において、健康保険が使用者の災害扶助(療養扶助と休業扶助)について社会保険として給付を支給していたことは事実であり、同様の社会保険の給付が、厚生年金保険法において障害扶助と遺族扶助について行われていた。しかし、これはあくまで労働者が健康保険あるいは厚生年金保険の被保険者として支給される給付であるにすぎないのであり、労災保険法の創設によって健康保険あるいは厚生年金保険の保険関係自体はなんの影響も受けていないのである。そして、すでに述べたように、「労働者災害扶助責任保険特別会計」の「労災保険特別会計」への帰属のような保険料の引継ぎあるいは保険関係の引継ぎに類することは、健康保険法・厚生年金保険法と労災保険法との間でまったく存在しなかったのである。」としており(前掲西村意見書補充書九、一一ページ・<書証番号略>)、末広厳太郎博士は、「元来扶助制度は、業務上の災害に対し、無過失賠償原理によって救済を與えることを目的とするものであって、業務外の災害はこれによって救済されない。そのため、災害が起った場合に、それが業務上なりや否やが問題になると、―過失問題とは別に―実際上容易迅速に救済が與えられない。そこで、考え出されたのが災害の原因が業務上であるかどうかに関係なく、社会保険的の方式によって迅速に救済を與え得る方法であって、健康保険法はこの方式を法制化したわが國最初の例である。労働者及びその使用者の分担によって予め一定の保険料を納付せしめ、災害が発生した場合には、その原因が業務上であるか否かに関係なく、保険給付によって機械的に迅速に或る程度の救済を與え得るようにしようというのが、この制度の目的である。これにより、労働者は、業務上の災害に対しても、一部分自己の負担によって救済を與えられる代わりに、災害原因が業務上なると否とに関係なく迅速に救済が與えられるのがこの制度の特色であったのである。健康保険法は制定の当初においては、被保険者の範囲も狭義の工業、鉱業に使用される者に限られていたが、その後昭和十四年に制定された職員健康保険法を吸収してその適用範囲が商業的企業等にまで拡げられることとなったのみならず、保険給付も被保険者本人のみならず、「被保険者ニ依リ生計ヲ維持スル者」にまで與えられることとなった。(中略)今までは災害の原因が「業務上」なると否とに関係なく、或る程度まで健康保険法によって救済が與えられていたから、労働者は災害の原因が、「業務上」であったかどうかにつき特に立証を要せずして、扶助の請求を為し得たのであるが、今度は「業務上」の災害に対してはこの法律及び労働者災害補償保険法で補償を與えられ、これに反し「業務外」の災害に対する救済は健康保険によって與えられることとなったため、実際には災害が「業務上」であるかどうかに争を生じ、そのため労働者が迅速に救済を受け得ないことがあり得る」と述べているのである(法律時報二〇巻六号二六、二七ページ)。

このように、旧健康保険法等と労災保険法との「連続性」はむしろ否定されるし、具体的にも両者の間には、前者はその財源が使用者、労働者の折半であったのに対し、後者は、そのほとんどが使用者の負担となっていること、前者と比較し、後者の補償額の内容がほぼ倍加されたことなどの重要な変化がみられるのである。

したがって、原判決のように、旧法の制度と新法の制度との間の「連続性」を肯定し、その間に大きな違いはないとするのは、本件で問題となる旧健康保険法、旧厚生年金保険法から労災保険法への制度的転換の理解としては失当であるといわざるを得ない。

なお、原判決の挙げる第二の理由は、本件に労災保険法の適用を認めるべき積極的根拠足り得ないことは明らかである。

4 以上のとおり、本件には労災保険法の適用がないことは明らかであって、原判決には、同法三条一項、一二条の八第一項、第二項の解釈、適用を誤った違法があり、その違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

四 労災保険法五七条二項について

前記二、三から明らかなように、労災保険法五七条二項は、同法施行前に生じた業務上の事由に起因する疾病等については、たとえその発症が同法施行後であったとしても旧法を適用すべきことを定めた規定であると解すべきである。すなわち、労災保険法五七条二項は、「この法律施行前に発生した事故に対する保険給付及びこの法律施行前の期間に属する保険料に関しては、なお旧法による。」と規定しているところ、前記一で述べたように右「事故」が労働者に発生した負傷、疾病等の原因となった業務上の事由を意味するのか、労働者に発生した疾病等の結果を意味するのかは、文理解釈上は一義的に決し得ないというべきであるが(なお前掲保原評論四三ページ、前掲西村季刊労働法一六二ページ参照)、労災保険は、労基法上の使用者の災害補償責任を担保するための保険制度であるところ、労基法については前記二でみてきたとおり、同法施行前の業務に起因する疾病等は、その発症がたとえ同法施行後であっても、なお旧法によるべきものと考えるのが合理的であり、同法一二九条は、この事理を確認し、明示した規定であると解すべきであり、したがって、労災保険法五七条二項もまた同法施行前に生じた業務上の事由に起因する疾病等は、その発症がたまたま同法施行後であっても、旧法によるべきことを規定したものと解すべきことになる。すなわち、労基法一二九条という「この法律施行前、労働者が業務上負傷し、疾病にかかり、又は死亡した場合」とは、「業務上の事由」が同法施行前に発生した典型的な場合を例示したものにすぎず、たとえ結果が同法施行後に発生してもその原因である「業務上の事由」が右施行前に発生している場合にはこれに該当すると解されるし、労災保険法五七条二項の「この法律施行前に発生した事故」とは、同法施行前に発生した「業務上の事由」を意味し、たとえ負傷、疾病等の結果発生が同法施行後であってもその原因である「業務上の事由」が右施行前に発生した場合には、これに該当すると解するのが相当である。そして、かかる解釈が「事故」という語義の通常の用例に反するものでないことは明らかである。

また、本件における労災保険法の旧法には旧健康保険法、旧厚生年金保険法が対応すると考えられるところ、労災保険法制定に先立ってなされた健康保険法の一部を改正する等の法律(昭和二二年四月一日・法律第四五号)の経過規定をみると、その附則三条は「健康保険法による保険給付で、この法律施行の日前における業務上の事由に因る疾病又は負傷及びこれに因り発した疾病に関するものについては、なお従前の例による。」と、同附則四条は「厚生年金保険法による保険給付で、この法律施行の日において、現に支給を受ける権利のある者に支給するものについては、なお従前の例による。」と、同附則五条は「厚生年金保険法による保険給付で、この法律施行の日前における(中略)業務上の事由に因る疾病若しくは負傷及びこれに因り発した疾病に因りその被保険者が死亡した日が、この法律施行の日以後である場合に、その者又はその者の遺族に支給するものについては、なお従前の例による。」と、それぞれ規定しているが、右経過規定三条、五条の「この法律施行の日前における」の文言は「業務上の事由」を修飾するものと理解するのが素直な解釈であり、たとえ負傷、疾病等の結果が同法施行後に発生してもその原因である「業務上の事由」が右施行前に発生している場合は、これに該当すると解するのが相当であり、このことも労災保険法五七条二項についての前記解釈の正当性を裏付けるものである。

なお、原判決は、「通常の用語例によれば、「事故」とは原因と結果とが同時又は近接して生じる場合に、その両者を含めた意味で用いられるのが一般的であることからすると、労災保険法、労基法の各経過規定は立法当時原因行為によつて短期間で結果の発生するいわゆる災害性疾病を予定しており、発病と原因行為との間に長時間の隔たりのあるいわゆる職業性疾病は予想していなかつたと考えられる」(原判決二一丁裏末行から二二丁表三行目まで、原判決の引用する一審判決二一丁表二行目から七行目まで)としているが、それが原判決の独断であることは、工場法施行下においても、大正五年八月九日付け通牒商第五八八七号などにより多くの職業性疾病に対し扶助がなされていたこと(労災補償業務上外認定基準の詳解(昭和四二年版)四三ページ)、労基法施行に先立って制定された同法施行規則三五条の規定は主として職業性疾病に関するものであったことなどから明らかである。

したがって、労災保険法五七条二項にいう「事故」を労働者に発生した疾病等の結果を意味すると解し、本件には旧法の適用がないとした原判決には、右法律の解釈、適用を誤った違法があり、その違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

五 結び

以上検討してきたところから明らかなとおり、原判決は、労災保険法五七条二項の解釈、適用を誤り、さらに労基法八条、一二九条の解釈、適用を誤った結果、労災保険法三条一項、一二条の八第一項、第二項の解釈、適用を誤り、本件に同法の適用があると解したものであって、原判決には右法律の解釈、適用を誤った違法があり、その違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

第二点 審理不尽ないし理由不備の違法

一 原判決は、「本件被災者の疾病が業務に起因したと認められる限り(本件では疾病と業務との因果関係の有無が処分事由となつていないので、これにつき検討を加えない。)、本件被災者に労災保険法の適用があるというべきである。」(原判決の引用する一審判決二八丁表一行目から四行目まで)とした上、「本件請求者らに労災保険法の適用がないことを理由になされた本件不支給処分は同法の解釈・適用を誤まつた違法な行政処分であるというべきであり、本件不支給処分の取消を求める原告らの本訴請求は理由がある」(原判決の引用する一審判決二九丁裏四行目から七行目まで)として、本件処分を取り消したものである。

すなわち、原判決は、本件被災者の疾病が業務に起因して発症したか否かについては、裁判所の認定判断を留保した上、本件請求者らに労災保険法の適用がないことを理由になされた本件処分は同法の解釈、適用を誤ったものであるとして、本件処分を取り消したものである。

二 しかしながら、本件請求者らは、本人、夫又は父である本件被災者らが、ベンジジンの製造業務に従事したことを原因として膀胱ガン等にり患したことを理由に、上告人に対して労災保険法に基づき給付の請求をしたところ、上告人が本件処分をしたので、被上告人らがその取消しを求めて本件訴訟を提起するに至ったものであることは、本件記録上明らかである。したがって、被上告人らにおいて本件処分の取消しを求めるためには、右請求に係る給付について、業務起因性及び各所定の支給要件を充足していることを主張立証しなければならないのであり(最高裁昭和六三年三月一五日判決(昭和五九年(行ツ)第二二七号事件)、福岡高裁平成元年一〇月一二日判決(昭和六二年(行コ)第一六事件)など参照)、裁判所としては、被上告人らの右主張立証が尽くされたものと認定判断し得るときに限り、本訴請求を認容することとなるのである。

三 ところで、ベンジジンとは、H2N-―-NH2の化学構造式を有する結晶性の物質であり、かかる芳香族化合物のニトロ又はアミノ誘導体は、常温では液体又は固体であるが、産業現場では、通常その蒸気、粉じんのばく露を受けることが多く、経気道吸収又は経皮吸収によって人体に取り込まれ、その結果、尿路(腎臓、腎孟、尿管、膀胱及び尿道をいう。)系に腫瘍を形成する等の有害作用を及ぼすのが特徴である(<書証番号略>)。本件についてこれをみると、原判決の引用する一審判決添付別表(一)の「経過と現状」欄記載の事実(この内容については、当事者間に争いがない。)自体からも明らかなように、例えば、被上告人寺中の亡夫である寺中一夫は、昭和四四年九月一日に脳出血を起こし、同年一一月二七日に死亡しているが、ベンジジンに起因する疾病の特徴は、尿路系に腫瘍等の障害を生じさせることであり、脳系統のものではないから、右死亡が業務に起因するものとは認め難いし、被上告人谷口の亡父である谷口房之助は、昭和二四年一月一五日左腎剔出手術後腸捻転を併発し、同月二二日に死亡しており、さらに、被上告人田崎の亡夫田崎正一は、昭和三七年五月二三日頸部淋巴腺がんにより死亡しているが、これらも尿路系の障害に起因する死亡ではないから、同様の理由により、業務に起因する死亡とみることは困難である。

上告人は、右三名については、業務起因性について争ったが(上告人の一審における昭和六〇年六月一二日付け第五準備書面及び同年一二月一八日付け第六準備書面)、一審判決は、前述のとおり「因果関係の有無が処分事由となつていないので、これにつき検討を加えない。」として、業務起因性の有無等について判断することなく被上告人らの請求をいずれも認容し、原判決も、専ら労災保険法の適用の有無についてのみ審理した上、一審判決の右説示をそのまま引用して、上告人の控訴を棄却したものである。

四 以上のとおりであるから、原判決には、業務起因性及び各所定の支給要件の存在について認定、判断をしていない点において、審理不尽ないし理由不備の違法があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

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